漫才?…放浪芸てキミ! お笑い漫才と放浪芸・大道芸をつなぐ
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今ではほとんど見る事ができなくなったけれど、とってもステキな芸能が、日本にはたくさんあります。そんな芸能をここでは紹介する…だけではなくて、どんどん探訪します!そして実演します! みんなでまだまだ忘れられるには惜しい芸能の数々を楽しみませんか!
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伝説の興行「高級萬歳」

神戸では萬歳が禁止されていた

浪曲師との出会い

さて、ここでいよいよ捨丸1番の武勇伝をお話しましょう。
それにはまず、浪曲師の桃中軒雲右衛門についてお話しなければなりません。
浪曲というのは、祭文チョンガレうかれ節浪花節浪曲という流れで完成に至るわけですが、明治39年、祭文の出身の彼は東京の本郷座で大成功を収めて浪曲を確立します。

この数年前、雲右衛門は大阪松島の八千代座にやって来ました。
松島と言えば、捨丸が腰を据えていた所です。
当時捨丸20歳前、雲右衛門○○歳前後。同じ祭文から派生した萬歳と浪曲。
最初は浪曲も萬歳と同じようなしまりのない衣装(夏は浴衣に兵児帯)で、見台の前にチョコンと座ってやっていました。
それが立ち高座に白地の羽織、仙台平の袴、髪は総髪で忠君愛国、武士道を説くわけです。
それを見た捨丸、紋付と角帯を作り、相方には三味線を持たせた。
そして下品な物言いや、卑猥な言葉をできるだけ避けるようにしました。

神戸では萬歳が禁止されていた

それから数年後、明治45年です。
神戸では10年近く萬歳は、警察からの「万才なるもの、公の秩序を乱し、善良の風俗を害すによって、今後一切上演まかりならぬ」というお達しの元、上演禁止になっていました。
当時の萬歳は、相当卑猥なネタもやっていたのです。
この辺りは日露戦争のあった時代です。
戦争自体は大勝利に終わっていましたが、萬歳の上演禁止の方はまだ解けないままでいました。

そこで新開地の三野源太郎という興行師が、唯一紋付を着てやっている萬歳師捨丸に白羽の矢を立てました。
早速捨丸は神戸へ向かいます。この時の相方として選んだのは、芸仲間の辰巳小次郎という剣武士の妻、中村種春でした。
そう、中村種春とは、後の捨丸の相方、中村春代の師匠です。
そして、捨丸を筆頭に20人あまりで一座を組み、神戸へ向かいました。
この時捨丸は万才とい名は伏せて「鼓唄」という名称で出演したらしいです。

公演当日、新開地の日の出座には、
サーベルを付けた相生署の警察幹部がズラリと並びます。
公演は何と3時間にも渡ったと言います。
それがどれ程の大熱演であったかは想像に難くありません。
名古屋萬歳三曲萬歳仁輪加、などなど。
ここに江州音頭河内音頭がないのは、この頃にはもう萬歳とは完全に分離していたからです。

そして公演翌日。
三野源太郎と捨丸が相生署に出頭します。
「今後、風紀壊乱に類する言辞は絶対に慎むように」との条件付きでしたが、
「まあ、あれくらいならいいだろう。」
と許可が降りたのです!

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